新人事制度 大阪での報告①~③
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既刊の『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社 2019)および『ワイルドサイドをほっつき歩け』(筑摩書房 2020)の読後感が快かったので、同じブレイディみかこさんの今度出た『ブロークン・ブリテンに聞け』(講談社)も、つい買ってしまった。 こう三冊の書名を並べて、それぞれ出版社が違うこと、立て続けに出版されていることに気づく。別々の雑誌に同時並行して連載している文章が次々本になっているのだ。売れっ子だなあ。それに大変な筆力である。 一番新しい、この『ブロークン・・・・』は月刊誌『群像』に連載してきた文章を収めてある。最終章はその9月号に掲載された。本は10月26日第一刷発行である。 デビット・グレーバーに度々言及しているのが、酔流亭にはありがたかった。 アナキストと言われているこの思想家は、つい先日(9月2日)60歳にもならぬ若さで急逝したが、その遺著ということになるのだろうか『ブルシット・ジョブ』は今年7月に日本語訳が刊行されている(岩波書店)。しかし4070円(税込み)と、本一冊にしてはちょっと高い。それで買うのに二の足を踏んでいたのである。ところが、ブレイディみかこさんがグレーバーの考えについて本書のあちこちで紹介してくれているのだ。中ほどには[グレーバーの考察]と題する一章まである。 たとえば労働者階級とは「ケアする階級」のことだとグレーバーは言っていたそうだ。 労働者階級の街の住人は、炭鉱労働者や鉄鋼労働者以上にメイドや清掃人、靴磨き、料理人のような、裕福な階級に雇われて彼らを世話(ケア)する人たちのほうが、マルクスの時代にだって多かった。いわゆる先進国では製造業が衰退した今日ではもっとそうで、ブレィディさんが暮らすイギリスでも、また日本でも、いまや労働者階級の中心にいるのは介護士や看護士、保育士などのケア労働者である。 なるほどコロナ禍にあっても、この人たちはテレワークもせず(できず)現場に出ているのだから、これはそのとおりだろう。 そうしたことから、人をケアする、思いやる能力というのは、人にかしずかれるばかりの上流階級の人間よりも、労働者階級のほうに備わっている。 ところが、労働者の相手をケアする能力が自分たちのコミュニティに向けて発揮されていた間はよかったが、今日では新自由主義によって労働者階級の解体が進み、そのコミュニティも散り散りにされている。すると、対象を失った「ケアする能力」はどこへ向かうかというと、実在しない抽象的なものをケアし始めたというのである。それが「我々の国家」であり「未来の世代」だという。 かくて、国家の財政破綻を防ぎ、未来の世代に借金を残さないために一丸となって痛みに耐えようという緊縮財政のレトリックを、緊縮財政に痛めつけられている人びとのほうこそが受け入れてしまう。 もっとも国の借金を国民一人当たりに頭割りして「一人800万円」とかいう、日本でよくやられるおかしな計算は、緊縮財政の国イギリスでさえ行なわれていないそうだ。日本の若い編集者から「学校で日本の借金についての作文を書かされた」という話を聞いてブレイディさんはゾッとしたという。 「だいいち財政赤字は国民の借金ではないので間違ったことを大人が子どもに教えてはいけない」(109ページ)。 グレーバーの他にも、ケン・ローチやジェレミー・コービンの名前も時々出てくる。コービンはイギリス国歌「ゴッド・セイヴ・ザ・クィーン」(女王陛下萬歳)を歌わなかったり、労働党の党首に就任したとき枢密院(女王の諮問機関)への招待をボイコットしてハイキングに行ったりしてよく物議を醸したらしい。ブレィディさんは彼をミスターマルキストとか生涯のマルキストと呼ぶが、これはイギリス人はみんなそう思っているのだろう。酔流亭はコービンをますます好きになったし、こういう人が党首だったとき政権獲得まであと一歩のところまで労働党が行ったのがイギリスという国の面白いところである(2017年)。 去年暮れの総選挙では労働党は大敗して、コービンも党首を退いてしまったけれど。 ・・・ここまで書いたところでコービンの名前でネット検索してみたところ、コービンがつい最近、労働党の党員資格を停止されたというニュースが目に入った。労働党内の左右のせめぎ合いということであろうと思われる。 さて本書は先行する『ぼくイエ』や『ワイルド・・』と比べると、著者の持ち味である「地べた感」(地べたから見た・・という視点)がいくらか希薄になっている印象を受けた。さては冒頭に触れたように売れっ子ライターになったせいかな? と思いきや、事情が終わり近くで明かされる。 著者とお連れ合いと一人息子が暮らしてきた労働者街の公営住宅でセントラルヒーティング・システムの修理にかかったら、家屋にアスペストが使われていることがわかり、大がかりな修繕工事が必要になった。たまたまオーストラリアに移住した一家の暮らしていた家を知人のツテで借りられることになって、二ヶ月ほどのつもりで仮住まいを始めたところ、コロナ禍が発生。住宅資材の供給も止まって、自宅の修繕がストップしてしまった。それで仮住まいが長引いているのだが、その借りた家というのが「ミドルクラスのポッシュな住宅地」にある(ポッシュって酔流亭には見慣れない表現なので今しらべてみたら「上流階級の」って意味だそうですね)。 ・・これまでわたしは労働者階級の街に住む人間として、ミドルクラスやアッパーミドルの人たちには、下層の生活や現実がまったく見えていないと書き続けてきた。しかし、今回、自分がポッシュ村に住んでみてよくわかった。 こりゃあ見えなくなるわ。 (190ページ) かくて、本書もまた格差社会の極まったブロークン・ブリテン(ぶっ壊れたイギリス)からの優れた報告になっている。 #
by suiryutei
| 2020-12-08 12:41
| 文学・書評
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Comments(4)
11月30日にお茶の水界隈を歩いたら、銀杏と満月が素晴らしかったということを今月1日の更新記事に書いた。その日の月はビーバームーンと呼ばれるものであり、酔流亭が街歩きしたのは、日が暮れて月がちょうど浮かんでくる時刻であった。 それで、初めはどこか喫茶店に入るつもりで街に出たのであったのに、月と銀杏に見惚れているうち、喫茶店に腰を落ち着けて本でも読もうというほどの時間は無くなってしまった。 それでも、次の会合の時刻には、まだちょっと間がある。本屋を覗くことにした。お茶の水界隈なら大きな書店に不自由はしない。 全米図書賞をとったばかりの柳美里さんの『JR上野駅公園口』が置いてあったら買おうかなとも思ったのだけれど、見当たらなかった。受賞のニュースからまだ何日も経っていなかったから、入荷が間に合っていないのだろう。替わりに柳さんの他の著書がいくつか並んでいた。なお『JR上野駅公園口』は後日ネットで注文して一昨日届いた。これからゆっくり読むつもりだ。『JR上野駅公園口』ではイチョウを銀杏ではなく公孫樹と表記している。 本屋の中に居て他に目についたのは、齋藤幸平『人新世の「資本論」』(集英社新書)がいちばん目立つところに平積みされていることであった。売れているんですね。 この本については酔流亭は雑誌『労働者文学』に短い書評を書いて送ってある。同誌は年内には公刊されるはずなので、書評もそれに合わせてここに転写するつもりだ。 資本主義批判については鋭く適切であり、そんな社会は終わりにしなくてはならないと言い切っているのは、この本の高く評価されるべき点だと思う。題名の中に「資本論」を入れて恥ずかしくない。 同時に、物足りない点もある。資本主義を終わらせるとして、次に来るべき社会、それを著者は脱成長コミュニズムと呼ぶのだが、それへどう移行していくかが曖昧だと思う。いや著者は本の終盤でいくつもの提案をしてはいるけれども、どうも思いつきの域をあまり出ていないのではないか。資本主義社会を終わりにしようというのであれば、その社会にしがみつく資本の権力との激闘を覚悟しなくてはならないのに、権力問題を論じることは「政治主義」として回避している嫌いがあるのだ。序盤での資本主義や気候ケインズ主義批判は的確であり、中盤のマルクス再解釈も酔流亭はその全てには同意しないけれど充分刺激的だ。それだけに終盤の弱さがちょっと残念である。なお議会や選挙にばかり目を向けるのではなく、社会運動が大事だという著者の主張には酔流亭は強く同感する。 著者は1987年生まれのまだ33歳だから、若書きなのを批難するつもりはない。思索をさらに深め、練っていってほしい。 ところで、齋藤幸平の言う脱成長コミュニズムのコミュニズムはコモン(共同体)から採られている。ふと日本史家の網野善彦(1928-2004)を思い出す。今朝は早起きしたついで、網野の対談集『日本をめぐって』を本棚から久しぶりに抜いてめくってみた。上の写真だが、2002年に刊行されたのをすぐ買ったから、もう帯が破れたりしている。 なぜ網野を思い出したかというと、齋藤はマルクスの「ヴィラ・ザスーリッチへの手紙」(の草稿)に再三言及しているからである。この手紙を書くことを通じてマルクスは古くからの共同体についての思索を深めたと言われている。 網野も、対談集の中に収められている小熊英二との対談で「ヴィラ・ザスーリッチへの手紙」に触れているのだ。 マルクスはその手紙の中で、ロシアの農村に残る古い共同体に積極的な意味を見いだしていると言われる。するとそれは、『共産党宣言』にあるような発展段階の理論と齟齬をきたしてこないか、とも。 それがマルクスの矛盾だとして、そういう矛盾があるからこそマルクスの思想は深くなったとも言いうる。 ともあれ、コモン(共同体)は、齋藤が書いているように 20世紀の最後の年にアントニオ・ネグリとマイケル・ハートという二人のマルクス主義者が、共著『<帝国>』のなかで提起して、一躍有名になった概念(『人新世の「資本論」』141ページ) なのだが、網野善彦はそうした世界的な「流行」とは別のところで、日本中世史についての思索を深める中で共同体の評価に行き着いているのである。 そういえば網野と同世代の日本史家、色川大吉(1925- )も秩父蜂起を「秩父コミューン」と呼ぶことがある。のみならず、近代的自我の確立を阻むものとして共同体を否定的にばかり捉える丸山真男らの近代主義を批判しつつ、抵抗の砦としての面も共同体に見ようとする(色川『明治の文化』岩波書店 1970)。色川大吉もまた、自由民権運動や民衆史の研究を通じて共同体の評価に進んで行ったように思う。 コモンの思想は、なにも最近の流行というわけではないのだぞ。 #
by suiryutei
| 2020-12-07 09:32
| 文学・書評
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今日は12月の第一月曜なので、午後6時半から防衛省前で恒例の辺野古基地反対抗議行動が行なわれる。 ただ、酔流亭は今夜は休ませてもらう。申し訳ない。 その代わり・・ということではないけれど、一週間後、14日に予定されている官邸前行動には参加するつもりだ。 #
by suiryutei
| 2020-12-06 16:21
| ニュース・評論
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10月15日に出た郵政労働契約法20条裁判についての論評を新聞『思想運動』12月1日付けに寄稿した。それはこのブログの11月29日更新記事に転写済み。 このほど[思想運動]電子版の【私たちの主張】にも全文が掲示された(4日更新)ので、下に貼り付けます。 上の写真は『思想運動』紙12月1日付けの1面上(全12面)。酔流亭が書いた記事は4面に掲載された。 このブログの11月29日更新記事も再掲します。 #
by suiryutei
| 2020-12-06 09:08
| ニュース・評論
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今週水曜の夜、中野重治『歌のわかれ』をテキストにした読書会に参加した。HOWS(本郷文化フォーラムワーカーズスクール)において、立野正裕・明大文学部元教授をチューターにして企画されている文学講座の一コマである。 上に貼り付けた写真は、HOWSのチラシから当日の講座を案内する箇所を撮影したもの。普通に受け取れば、使うテキストは『歌のわかれ』であって、同作は『村の家』や『おじさんの話』と一緒に講談社文芸文庫の一冊に収められていますよと下にカッコで括って親切に教えてくれているのがすぐわかる。 かり思い込んでしまった。カッコの中に気をとられた。 『村の家』は、中野重治が自分の転向という重たいテーマに向き合った作品である。その短編だけでなく、前後に書かれた『第一章』『鈴木 郡山 八十島』『一つの小さい記録』『小説の書けぬ小説家』等々も連作となっている。酔流亭は数年前、中野重治全集全28巻をさる事情から友人の好意で入手したので、中野の著作については贅沢ができる。それらの作品を全て読み込んで読書会に備えたら、なにしろテーマが深刻だから、『村の家』の読後感は酔流亭においては『歌のわかれ』のそれを圧倒してしまった。 自分の勘違いに気づいたのは、当日、家を出る直前のことである。近頃こういう失敗が多いんだ。 しかし、酔流亭の失敗はそれとして、当夜の読書会は充実したものだった。作者の金沢での旧制高校学生だった日々と、そのあと上京して東京帝大文学部に入学したばかりの頃のことが題材になっている。上の写真、帯に[自伝小説 長編]と書いてあるけれど、なるほど戦後になって書かれた『むらぎも』は長編だが、1939年の『歌のわかれ』はそう長くない。短編と言っていいだろう。 作中「佐野の無礼は許せるが、佐野の無礼をおまえが許すことは許せぬぞ」という主人公の心のつぶやきは、おそらく日本近代文学において最も議論を呼ぶ独白であろうか。この日も、それについていくつも発言が出された。込み入った話になるので、ここでその報告はしませんが。 この読書会における師範代のごとき牧子嘉丸さんが中野のいくつかの作品を論じて『汽車の罐焚き』(1937年)にも言及された。 『汽車の罐焚き』は、『春さきの風』と共に、酔流亭がもっとも好きな中野作品である。作中、国鉄の機関士と助士が北陸本線の福井から金沢まで列車を走らせる場面がある。行きは急行で3時間ほどの行程。帰りは貨物車だ。汽車だから石炭をくべて走らせる。大変な重労働である。 6年前、郵便局の夜間勤務に取材して『深夜労働』というルポルタージュを書いたとき、内勤の郵便労働者の一晩不眠の労働を描くのに、頭にあった手本は『汽車の罐焚き』における彼ら機関士と機関助士の汽車を走らせる姿であった。もちろんお手本のようにはうまく描けていないが。 そんなことを思い出す。 #
by suiryutei
| 2020-12-05 09:14
| 文学・書評
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